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華園座語    




    華園座語 (1)            小西迦葉先生   講述
                        吉水善譲     書
                        梶原誓園    校訂



 極楽とは理念の王国を意味する。人格の根底に絶対的に付け加えられている

目的の王国である。

 一般の人々は地獄へ行くのが楽しみに見える。地獄が恐いということに気づい

たなら神や仏の救いの手がかかっているのである。人工衛星が出来た、水銀灯

ができた、南極探検に出かけた。しかしそのようなことをなしとげても全体的に

見て、人間自体は如何、自分が完全者唯一者に近づく生活をせねば真の人間

の本質はわからない。人工衛星を飛ばしたって、神と共にありきという立場から

見れば、火遊びだ、一つの遊戯だ。

 思ったことが叶うのを自由というのではない。真実な生命が独立するのを自由と

いう。何はともあれ、私が今日一日生きているということ自体が真の自由である。

肉体の未来は死ぬ方へ行く未来である。俺はこの死を超えて生きるぞと戦うのが

自由である。”おさつ”も大福も焼けるというのが自由である。われわれの自由は

火そのものとなって一切の悪を焼き尽すことである。絶対的な自由は解脱である。

 現代は自由の主体を感覚に置いているから、自由になると思うほど不自由が襲

いかかる。一万円とれば二万円欲しくなる。わけのわからないこの欲望から来る

習慣にとらわれやすい、われわれの迷える心を打ち破らねばならない。これが

真の絶対的自由である。それは仏教で言う解脱である。

 うれしい時には喜び、悲しい時には泣く。善くても悪くてもかまわない。そんなこと

はどうでもよい。真実なものを願って一生懸命にやりぬかねばならぬ。それが人生

の最高善である。考え込んだり、ひがんだりしないで、それはそのまま捨てて置け

ば、よいように人生は開けて来る。

 人に尊敬して貰おうとして生活はしない。軽蔑されても気にしない。敵も味方も

殺さないでまとめてゆくのがみ仏の教えである。勝たず負けず、人にお詫びを

言う位いで丁度よい。

 切り殺せる相手なら、切り殺してはならぬ。人を殺すのは勝った人が殺すのでは

ない。負けた人が殺すのだ。怒るのも同じことで、敗けた人が怒るのだ。勝つ人は

怒らぬ。強いセパードと子犬が出会った時、子犬の方は懸命に吠えかかる。

セパードは知らぬ顔して過ぎてゆく。腹の大きい、心のすわった人間にならねば

ならぬ。太いっ腹の人間になりたい。・・・これが浄土教の極意である。

 仏教は理論哲学のようにあれこれときめてかからぬ。ピシャッときめることはある

けれども余裕を残す。ユーモアがある。殊に仏教の学問は手がつけらえぬ程

むずかしい。けれどもそこに仏教の真理への深い道が隠されている。でも飛行機

の部分品だけでも幾万個もあるということである。その覚悟でやれば、仏教の学問

などは一つのイロハのようなものだ。しかしわかる仏教、それよりも、わからない

仏教の深みにまで研究を進めねばならぬ。これが真理である。

 絶対未来に真理の本質を見る浄土教の強さは、・・・譬えば如何に雪の降る厳寒

でも、目の前に風呂をひかえてお湯に入ることになれば、服を脱いで飛び込める。

今の寒さは大したものと感じない。これが浄土教の体験の深い意味である。

 悪に徹するということは、悲しい時に泣き、嬉しい時に喜こび、自然の与えられ

たままに満足ならば満足でよし、ただ静かに神的理念の王国の中へ全人類の

手を引いてゆかねばならないという、それだけの計画を、聖者にならないでも

平凡な現実の生活のままで断行させて頂だくことである。

 信仰は如何にそれが深い神的理念と直接に交渉ができるように深達しても、

それは神秘論より一歩も外に出られない。神秘論は内観の満足はあっても客観性

を欠く。世界を救い得る絶対客観性の真理の自覚において、始めて真の宗教とい

われるのである。真の宗教は現身が神あり仏であり得る自覚に到達することに

おいて、全文化の理念的本質として定立されているのである。

 われわれは、われわれの生活に憤おりと同時に勝利の喜こびを感じ得る生活

者でなければならぬ。人間の自我はただ自己の幸福のみを追求するけれども、

人格はかえってその幸福を受けることにおいて、限り無いはじらいをさえ

感ずるのである。

 仏が世に出て、まさしく全人類に遇うこと、それが出世本懐なれば、われわれの

人格が聖者に遇い、神話と共感ができ得るならば、それは人格の最高なる幸福

である。それがこの世に生まれた本懐である。それは端的に把持することができ

ないように見えるけれども、それだけ宗教の真理は絶対的であり、最高であり、

無限の価値をもつのである。

 哲学者は法を見る。けれども法の中に入らぬ。宗教は法の中に入っていく。それ

だから容易に法が得られる。真宗学は学者や博士を作るためのものではない。

真宗学は人間の増上慢を捨てさせるためにある。

 釈迦は何故八万四千の法門を説くか。南無阿弥陀仏だけでよいではないか。

よいと言えば、水だけ飲んでおれと言うに同じ。飯を食うを要す。

 聖道、浄土は異なれども分離してはならぬ。譬えば二つの岸が無ければ一つの

河が流れないように、四箇大乗の二つの岸の中を、誓願一仏乗のみ法の水は

流れている。誓願一仏乗は清浄であり真実であっても、堅固な四箇大乗の二つの

岸を取り壊しては直ちに災厄の泥水となる。誓願一仏乗のみ法の水が浄く流れる

ときは四箇大乗が最も盛んにならねばならぬ。キリスト教等ももっと盛んになって

ほしい。あらゆる宗教が盛んになるほど河は大きくなる。

 法華も浄土も敵対的に分れてはならない。けれどもそれは同じではない。

異にして分つべからずとは、河と岸とが別々になれないようなものである。

一にして同ずべからずとはご馳走を雑炊のようにまぜかえしてそれを箸ではさんで

食べるようなことをしてはならなぬ。あまり敵対的に分かれては双方が共に滅亡の

運命に陥いらねばならぬ。混同すれば南無妙アーメン陀仏というような御都合主義

になってしまう。

 疑を持ってもさしつかえはない。かえって疑を晴らそうなどということが

疑のもとになる。疑が晴れるような人間ならばこの世界で迷わない。疑が晴れる

などというからかえって問題が困難になり、間違いの中に陥らねばならぬ。

疑の心がある間が生(なま)の人間である。疑が無くなったら仏である。疑がある

から飯をうまく食うことができるのだ。

 しかし極楽へ往くということになると、疑が晴れたという形式で往く。でも、疑が

晴れたから極楽へ往けるという訳ではない。それは如来の真心に疑が無いので

ある。それ故に疑を晴らさねばならぬとか、浄い心にならねばならぬとか言うのは

間違いである。信仰自体に疑が無いのであって、疑が晴れるのが信仰ではない。

この意味から見れば、本来のわれわれには信仰などは無いのである。

 仏法を求める、信仰を求める、というような綺麗な言葉や態度に迷わされてはな

らない。み仏の前にはただ生れたままの裸の姿でよい。信仰ができない、信仰を

得たい、などというのはすべて煩悩のわざである。

 信仰があるとかないとかいうのは、その人の宿善による。有難くなるとかならない

とかいうことも宿善によるのである。

 仏の本願を信ずるというようなのではない。仏の大慈悲を頂だく。そこに他力の

信心が生まれて来る。阿弥陀仏の回向による信仰を頂だく。信心はくだされたもの

である。われわれは、だから信仰を作る必要はない。

 難信とは、われわれが要求したぐらいでは絶対的に得られない。どんなにわれわ

れが願力に背を向けても、願力の方から働きかけて信心を獲させ、念仏も称えさせ

るようにして下さるから、易行である。

 信仰が獲られたか獲られないかと、ノイローゼにならないでよい。自分で考える

から、もうちっと聞かねばならぬと、先手のかかった救いを毎日々々向うへ押しの

けて考えている。そんなに遠慮したりひがむことはいらぬ。そのような煩悩の

誘惑は捨てて置けば都合がよいようになる。



                            (未完)














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