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仏教研究 



歎異鈔聞書 (1)          吉水 善譲      著
                      梶原 誓園     校訂

第一節

 『弥陀の誓願不思議に、たすけられまひらせて、往生をばとぐ

るなりと信じて、念仏まふさんと、おもひたつこころのおこるとき、

すなはち摂取不捨の利益に、あづけしめたまふなり。弥陀の

本願には、老少善悪のひとを、えらばれず、ただ信心を要とすと

しるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生を、たすけん

がための願にまします。しかれば本願を信ぜんには他の善も要

にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべから

ず、弥陀の本願を、さまたぐるほどの悪なきゆへにと。云々』


              (一)

 不思議ということは如何なる宗教にも取り扱われている。不思議とは不可思議

ということであり、不可思議とは思議すべからずということである。

     「いつつの不思議を説くなかに

       仏法不思議にしくぞなき

       仏法不思議といふことは

       弥陀の弘誓になづけたり」

                       (曇鸞讃)

 五つの不思議とは、一に衆生多少不思議、二に業力不思議、三に禅定力

不思議、四に龍力不思議、五に仏法力不思議である。このうち、前の四は不

思議とするに足らず。ただ第五の仏法力不思議のみが真の不思議である。

 しかるに一切の仏法はみな不思議ではあるが、逆悪の凡夫を摂取して報土に

往生せしめ給うのは、ただ阿弥陀仏の大願業力に限るのであるから、仏の教え

の不可思議と弥陀の誓願不思議とは天地雲泥の差があるのである。

 一般では不可思議ということを神秘論の意味に取り扱っているが、弥陀の

誓願不可思議は神秘主義ではない。神秘主義とは人間の力ではどうしても

それが理解できぬという意味である。しかし、弥陀の誓願が人間の力で理解

できぬことは最初からわかりきったことである。進化論や現代のヒューマニズム

の立場では、人間が地上の存在者としては最高の自覚を持つから、人間を完全な

智恵者であるとする。しかし、これは人間のうぬぼれであって、人間が如何に知識

をみがこうとも、それには限度がある。

 蜜蜂や蟻は人間の考えられないような巧妙な働きをするだけではなく、その組織

的な働きは全く人間以上の社会的組織を持っているように見える。

 しかし、それは機械的なものにすぎないのであって、どのように組織的に立派で

あっても、そのこと自体が何であるかは、蜜蜂や蟻にはわかっていない。

彼等は何千年何万年のあいだ、同じ生活を繰り返すのみで、そこから進歩でき

ないのである。

 蜜蜂はただその仕事のために機械化されているのであって、それは一種の生きた

機械である。蜜蜂は一匹だけでは生きてゆけないので、団体の集団で生きてゆく

のである。社会団体を絶対的に重視すると、人間も蜜蜂のように機械化せられる。

機械文化は人間を能率的自由者とするために発明されたのであるが、機械の生産

性が大きくなると、人間は機械に追い使われて、人間の真の自由が見失なわれる。

 自動車や飛行機の発明は人間の歩行の限り無い進歩をみるようであるが、今日

では、それがかえって尊い人間の生命を奪いつつある。表面は文化を誇りながら

交通事故で命を亡ぼす姿は、自動車などの便利な機械が無かった時代とは、比較

にならぬほどの残酷が繰り返されているのである。

 科学の真理は、現実的に人間に幸福を与え、人間生活の自由を自覚させるのが

その本質なのであるが、それがそのように実践せられないのは、科学的真理が

機械性に制約せられるためである。それ故に、人間が科学を重要視しすぎると、

人間も蜜蜂や蟻のように一つの機械的存在に陥ってしまうのである。

 現代では、世界的に科学の真理から来る人間生活の不道徳性にやっと気付くよ

うになって、今日ほど道徳性を強調する時代は過去百年間には無かった。

 しかし、その道徳は一つの習慣のようなものであって、その習慣化した行為の

形式を道徳と思いこんでいるのである。

 ことに消極的な道徳は、ナニナニのことをしてはならぬ、これこれの行いは為して

はならぬ、という形式の中に人間の自由を封じ込めてしまったので、人間は道徳の

看板の中に人格の自由を全く見失ってしまった。

 現代が不道徳の時代、非道徳の時代に見えるのは、そのような習慣的な機械化

された道徳を打破して、其処から、人間の本質的な自由の中に生きてゆこうとする

精神の自覚が始められたためである。

 しかし今日の非行少年の問題が起こるのは、余りにも自由を動物的な自然の

範囲の中に見ようとしたためである。非行少年自身が悪いのではない。それは、

四、五歳ごろの、子供がその性格を作り出そうとする最も大事な時に、児童の指導

教育に当る多くの者が、非行少年のするようなことを行っているから、模倣に敏感な

子供たちが、何等の考えも無しにそのまねを行うことから、遂にそれが一つの習慣

となってしまうのである。

 今日では子供たちに対するテレビの影響が甚大である。殊に自由ということが

性解放という誤った意味に取られ、また教育が男女共学という青少年の純潔性を

失いやすいような環境の中で実践されるので、青少年の意識が驚く程にエロチック

化するようになったのである。

 人間の生理的要求から来る本能の如きものは、教育というような方法によらぬ

ことが大切である。嬰児は生れると直ちに乳を呑み、眠り、泣く。赤ん坊は母親が

乳首を口に入れてやって、吸うことを促進するのであるが、ひよこは卵からかえった

瞬間に、すでに餌をついばむことを知っているように見える。生きるために食べる。

次にねむる。誰からも教えられずとも、赤ん坊は眠ることが天才的に上手である。

また母親の懐に入ることに一つの安心感を持つ。これが赤ん坊の愛の本能である。

 フロイトは赤ん坊にも性慾があるというようなことを極論しているが、現代の精神

分析学はそれを根底的に修正している。食慾と睡眠との本能は生れたままで

直ちになしとげるが、愛の本能、生殖の本能は十四、五歳まで成長せねば

現れないのである。

 しかし、人間にとっては他の動物の如く、三つの生存本能で生きることよりももっと

大切なことは、人間は何よりも精神的存在、人間自体の価値を見出す存在者、であ

るということであって、それはすでに一、二歳の幼児の中に我というものが現われて

来ていることである。

 赤ん坊は純真で、嘘を言うすべを知らず、悪を為すことを知らぬ。殊に二、三歳の

幼児はまねごとばかり行うのであるが、そのまねには限り無き魅力がある。悪いこと

をしても、それが善いように見えるのは、まだ完全な意志に達しない幼児は未だ、性

の作用が起こっていないからである。

 アダムとイブが原罪に陥ったということは、彼等が目覚めたということである。動物

は性の意識の自覚を持たないから、性の羞恥心が無い。人間には人間自身を聖な

るもの、神に近き者、とする一つの精神状態があるから、二十億年間も瞬間的に繰

り返してきた動物的本能の要求に対して、深い恥かしみを持っている。これが特に

宗教では第一義的なものである。そこで、宗教の本質は、人間が性的な支配から

独立して、聖なる神に近付こうとするところにある。

 しかしながら、単に形式的な規則に縛られると、却って禁慾という悪い習慣に陥る

ために、人間の反撥感情は神聖性を求めれば求めるほど、性的慾求に悩まされ

て、地獄の火の中に陥ることとなる。このような、神なるものと性慾なるものとの矛盾

のうちに、宗教的生活の躓きの石を見るのである。

 聖書では、神を見るほどの最高なる理念への生活には、性の要求に悩まされる

余地は無い。にも拘らず、真実に神を求めるという自覚に立ち得ないで、ただ無我

夢中に神を求めるという一つの空想に陥るために、かえって動物的本能によって

最初の目的が裏切られるということになるのである。

 浄土真宗は、如何なる宗教にも見ることができないところの、結婚生活から出発

する宗教となったのであるが、今日のその結婚生活が浄土真宗の習慣化という

形になっていることは、宗教における仮象的結婚生活と見てさしつかえが無い。

 親鸞さまの妻帯の動機については、その根拠を御伝鈔の観世音菩薩の夢告に

置くのであるが、それは精神分析学の立場から見れば性慾促進の夢に他なら

ない。そのような夢物語りから結婚生活を始めたのであれば、親鸞さまは余りにも

低級慾求力の激しかった人と誤解せられるのである。

 もしも親鸞さまが結婚生活をもって地上最高の価値であり、真実なる幸福の

本質であると自覚されているならば

「愚禿鸞、愛慾の廣海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを

よろこばず、真証に証に近ずくことをたのしまず」(教行信証 信巻末)

と歎かれるわけは無い。恥ずべし悲しむべしと仰せられるわけは無い。

 私たちは、浄土真宗の者は古い意味の戒律を実践せねばならぬというような

錯覚は持たない。浄土真宗では、仏の真実なる信心を得れば直ちに仏の長載永劫

の行を頂くのであるから、他律的な戒律の如きものは全く不必要である。

 しかし、もしも第十八願が三信十念のみであるならば、私たちは他力の信心に

住して、口にお念仏さえ申しておればそれでよい。しかるに、第十八願においては、

三信十念する者は必ず真実報土に生れるという絶対自由の真理が開顕されると

同時に、「ただ五逆と正法を誹謗せんをば除かん」という絶対的条件が付け加えら

れているのである。

 この唯除五逆誹謗正法を倫理的に解釈すれば、第十九願に誓われている修諸

功徳の教え、そなわち人倫的宗教に落ちるのである。しかし、この聖語を直ちに

悪人成仏の要請として見ると、現代の浄土真宗一般の悪人正機という価値転倒

の矛盾に陥るのである。

 唯除五逆誹謗正法という聖語の中の、「除く」とは、三信十念する者は、法の自然

として五逆と謗法の罪が取り除かれるという意味である。これは現生十種の益の中

の転悪成善の益から見込まれたのである。浄土真宗は、聖者の宗教ではなく、人間

本位の宗教である。しかし、人間本位とは、生れながらの動物性の人間が、極楽

往生の正客であるという意味ではない。

 もしも悪人が正客として迎えられるのであれば、唯除五逆誹謗正法の聖文はかえ

って躓きの石となる。唯除の聖文は、歎異鈔に仰せられている如く、弥陀の本願

には如何なる悪も障りにならぬということである。悪が障りにならぬということは、

如何なる悪をしてもよいというのではない。

 ”降り降るも軒の雫や春の雪”

という意味なのである。

 大経には、「猶し、火王の一切の煩悩の薪を焼滅するが如し」と開示されている。

太陽の熱に直接触れると如何なる物もガス体に化せられてしまうように、阿弥陀仏

の大智の火に焼かれると、たちまち煩悩即菩提、生死即涅槃というガス体に化せ

られてしまうのである。

 浄土真宗が即身成仏の教えであるならば、ガス体に化したことが現実的に、はつ

きり現われてくるのであるが、浄土真宗では仏の覚りは目的の王国(極楽)で成就

するという真理に立っているので、私たちのこの世の現実の生活はどこまでも生れ

たままの人間の姿である。

 他力の信心を得させて頂いても、私たち人間の立場から見れば、私たちには何

一つ変わりは無い。しかし、仏智の側から見れば、それはすでに正定聚不退の位

に入るだけではなく、如何に多くの罪に悩まされていても、立ち所に生身煩悩余倶

儘の徳に満たされているのである。

 他力の大信心は、人間生活の絶対的昇華を意味する。大無量寿経に「道に昇る

こと窮極無し」と示されているのが浄土真宗である。現代の信仰主義の立場は、

そのほとんどが観経義に座るから、悪人正機ということが、絶対目標になっている。

しかし大無量寿経の場所では、悪人正機という言葉は出て来ないし、そのような

意味は無いのである。

 どのような宿業に悩める者も、そのままで、極楽に向っているのである。

 どのように悪人の如く見えようとも、仏の摂取の利益のゆえに、正定聚という菩薩

の行を行ずる目的的自覚者となっているのである。



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