仏教研究
自然法爾章聞書 吉水善譲 著
梶原誓園 校訂
親鸞聖人八十八歳御筆
獲の字は因位のとき、うるを獲といふ。得の字は果位のときにいたり
て、うることを得というなり。名の字は因位のときのなを名といふ。号の
字は果位のときのなを号といふ。自然といふは、自はおのづからとい
ふ。行者のはからひにあらず、しからしむといふことばなり。然といふ
は、しからしむといふことは、行者のはからひにあらず、如来のちかひ
にてあるがゆへに。法爾といふは、如来の御ちかひなるがゆへに、
しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆへに、
すべて行者のはからひなきをもちて、このゆへに他力には義なきを義
とすとしるべきなり。
自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ち
かひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのま
せたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよか
らんとも、あしからんともおもはむを、自然とはまふすぞとききてさほ
らふ。ちかひのやうは、無上仏にならしめんとちかひたまへるなり。
無上仏とまふすはかたちもなくまします。かたちもましまさむゆへに、
自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは
まふさず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞ
ききならひてさふらふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。
この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべ
きにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふ
ことは、なを義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。
よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪のじしりがほは
おほそらごとのかたちなり。
是非しらず邪正もわかぬこの身なり。
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり。
これは、親鸞様が九十歳でお亡くなりになる約三年前の八十八歳の時の御筆で
あって、他力の信心をこれほど、はつきりとお示しになつたお言葉は他の御聖教の
何処にも見出されない。言葉は釈尊における涅槃経のように、これが親鸞様御一
代最後の尊い究極的なお言葉なのである。
信心には自力と他力とがある。自己の能力によつて其の信仰を樹立するのが自
力の信心である。涅槃経では、人間は仏陀としての自覚能力を本具していると
いう。聖道思想では、仮令どのように信仰の独立的な価値が示されていても、この
本具の仏性を自己の努力によつて開発するより他に方法が無いのである。これに
反して、他力の信心である浄土教では、弥陀の本願力によつて回向せられる信楽
(信心)の他に、人間には絶対的価値をもつ信心が無いのである。
仏の本願力によつて他力の信心が与えられるのであるから、獲得ということが
信心の中に最も深い意味を持つ。それは、信心の内容が弥陀正覚の内容である
からである。
南無阿弥陀仏という名号の、名の字の中に因位の万行が含まれてをり、号の
字の中には果位の万徳が収められている。南無阿弥陀仏の名号はただ漢字を
六つ並べたものではない。南無の二字は信心獲得のいわれであり、阿弥陀仏の
四字は如来正覚の嘉号である。
他力の信楽は、正覚の理念における絶対判断を意味するのであつて、人間の人
格が最高極限に達した時、その直観の状態を信楽という。この信楽は人間の精神
の働きによつて得られるのではない。それは、正覚の理念判断が人格に反映する
ことによつて得られるのである。この信楽の原因性を獲の字で表現せられる。
その信楽は、直ちに如来正覚の結果を徳として与えられるから、得の字で表現せ
られる。即ち、他力の信楽が正因であつて、この正因を得たとき、直ちに如来正覚
の結果に至る必然性が人間のものとなるのである。
南無阿弥陀仏の六字は、因果同時の絶対的価値を持つているから名号という。
この名号が人格内に表現せられるのを信心獲得というのであつて、それは、存在
から超存在の理念に体達する自然の法則なのである。
自然とは、おのづからしからしむということである。私達の身体は自然の法則に
順応しているので生きることが容易である。これに反して自然の法則に反する
生活は、「自」を<おのづから>と読まないで<みづから>と読む。<みづから>と
いうのは自己中心を意味する。一般の宗教が無病息災や現実生活の幸福を目的
とする限り、それは此の<おのづから>という意味を<みづから>という意味に
履き違えているのである。<おのづから>には人間の計らいが無い。人間の計ら
いが入れば「自」は<みづから>という意味に変化するのである。
人格が極楽へ参与するのは、人間の精神や人格によつて為しとげられるのでは
ない。私達を極楽へ往生には私達人間の何等の条件をも要しないのである。
極楽とは、弥陀正覚の大世界、真理の国、絶対の世界、永遠の世界、無の
世界、理念の王国を意味する。私達の人格の根底に付け加えられている未来の
目的の王国である。
法爾とは、法の徳として、しからしむということである。如来正覚の法の成就に
よつて、そのように為しとげたのであつて、人間の力によつで為しとげるのでは
ない。義とは、計らいである。人間の計らいが完全に取り除かれた状態を他力
という。弥陀の誓願によつて、総べての者を如来の法身と同じ南無阿弥陀仏の
体にしてしまつているのが、他力である。
凡ての者を極楽に往生させるのが如来の御誓いであつて、それが自然法爾で
あるから、別に人間の方から彼れ此れ、信心を得たとか得ないとか、疑いが晴れ
たとか晴れぬとか、そういう計らいを持たないのである。
「信は願より生ずれば
念仏成仏自然なり
自然はすなはち報土なり
証大涅槃うたがはず」 (善導讃)
仏心が、私達に助かつてくれよという仏の頼み心が、先に、己に、成就せられてい
る。仏の本願の南無阿弥陀仏の自然法則に仏の方から任せきつておわします処
を、そのまま人間に移しあらわされたのを自然というと、親鸞様はお聞き開きになつ
ているのである。
弥陀の本願は、総べての者を無上仏にすることでる。無上仏というのは、真実の
証(さとり)、真解脱、無上涅槃であつて、自然の理念を意味する。それは形の無い
ものである。この形の無い涅槃の無を、私達に表すために、阿弥陀仏とお示すにな
つているのである。阿弥陀仏は自然の様を知らせたまう量、即ち意味判断である。
春夏秋冬は自然の移り変りであつて、人間がきめるものではない。それと同じよう
に、極楽に生れてゆくのは法爾自然であつて、死なぬ仏になるように、己に阿弥陀
仏が決めてくださつているのである。それを私達が彼れ此れと沙汰することは、
義なきを義とする仏智を人間の理性で限定することになる。極楽に往生するのは
自然法爾であると私達が論定するならば、それは、なほ”義のあるになるべし”と
いう意義に落ちる。弥陀の本願を詮索する能力も資格も人間には無いのである。
自然とは、ありのままということである。仏の本願が自然法爾であるというのは、
仏の本願の極楽往生が、ありのままで生れてゆくという意味に通じているからで
ある。私達が仏の御国に生れてゆくなどということは、夢にも考えられない一大事
の因縁である。此の一大事の因縁が私達の生活の中に徹底するゆえに、此の
徹底性を自然法爾というのである。
「義なきを義とする。」という言葉の、此の前の”義”は私達の存在の在り方であつ
て、人間の計らいが無いということである。後の”義”は弥陀の本願である。弥陀の
計らいである。往生の一大事は私の計いなく唯弥陀に計らわれるより他はない。
それは人間のいかなる計らいも手の届かない仏の計らいの領域である。
仏の本願は自然である。人間は自然をどおすることもできぬ。聖書に、ソロモン王
が栄華を尽くしても、彼は野の花の一本さえも造り出すことができないではないかと
いう言葉は、神の世界が自然法爾であることを完全に論定せるものである。
大無量寿経では、神が此の世界を造つたというような天地創造説を遥かに超越し
ている。阿弥陀仏が阿弥陀仏の国を成就したのである。阿弥陀仏が阿弥陀仏の国
を成就したのを自然法爾という。弥陀が弥陀の国を成就したということは、私達が
弥陀と同じ証(さとり)を得る必然性を成就してくださつたのである。
此れが、極楽の意味である。仏が極楽を成就したのは、私達の極楽往生を、もう
既に、私達に一歩先んじて、成就したもうたのでる。
私達は、唯、今やつている仕事を一生懸命にやるだけ。それが自然法爾である。
私達が無作に弥陀の本願に摂取せられるのを自然法爾という。
「よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりかほは
おほそらごとのかたちなり。
是非しらぬ邪正もわかぬこの身なり
小慈小悲もなけれども
名刹に人師をこのむなり。」
これは本願の大船に乗つて極楽往生の喜こびの只中にある親鸞様ご自身の
現実の姿である。名利を超えた人師は此の世には在り得ないはずである。真の
人師たる者は法蔵菩薩の本願を其の人格の底に宿している願生の菩薩でなけ
ればならぬ。真の善知識は弥陀自身である。真実に極楽へ私を召したまうは弥陀
の本願のみである。此の真実な意味を理解しないために名利に人師を好むと
いう魔障に陥るのである。
完
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